8. 母を救った腎臓移植(MKさんの投稿体験手記)
〜患者の家族の目から見た海外での腎移植〜
(この体験手記は、1991年に執筆されました)
執筆の動機
母は58歳。現在はいたって元気です。毎週近くのテニスクラブへ出掛けて、若い
人たちと一緒に汗を流す一方、スイミング・スクールにも欠かさず熱心に通っています。
そんな母も、さぞかし帰宅後はぐったり疲れて--と思いきや、何だかんだと言っては
父や私をも引きずり込んで雀卓を囲むこともしばしばで、時には徹マンになることも
珍しくはありません。
そろそろ初老の域に達しようとする母の、このバイタリティーを支えているものは、も
ちろん食事です。好き嫌いなく実に何でもよく食べます。妊娠中の私より食べる量が
多いのには、驚きを通り越して、ただ呆れるばかりですけれども、3年前には、その姿
はありませんでした。
いま、この母の体内では、母のものではない一つの『宝物』が正常に機能し、働い
てくれています。
昭和59年、高血圧から腎臓を患った母ですが、治療の甲斐むなしく、遂に後戻り
できない、人工透析という道に入ってしまいました。決して治らず、なんら根本治療
にならない上、現状維持も難しいために、一度始めたら最後、死ぬまで続けなけれ
ばならない、この人工透析療法は、別名 《地獄の一丁目》 と言われていますが、
母は透析開始後3年と数ヶ月にして『腎移植』を受けるチャンスに恵まれ、現在で
は前述の通り、何ら健康な人と変わらぬ生活を送っています。
しかし私たち家族が手に入れ、成功した、移植手術というチャンスは、自らの積極
的行動なくして、向こうから転がり込んで来たものではありません。
臓器移植については、現在世間で様々論議されています。そしてその意見は、立場
によって大きく変わってくるのは当然だと思います。しかし私たちの耳に聞こえて来る意
見は、評論家や移植関係医などのお医者様のものばかりであり、当事者であるはず
の移植を待ち望む患者さんの意見や、移植を済ませた患者さんの体験談等はほとん
ど耳にすることがないのは、とても不思議なことだと思います。
私たち家族も、3年あまり前までは移植を求めて暗中模索していましたが、幸運にも
チャンスに恵まれて人工透析と決別することができました。
今回私たちは、その長く苦しかった時を振り返り、『元患者』という立場から、家族が
体験してきた具体例をお知らせすることにより、腎移植を希望されている患者さんに
とって、僅かでも福音になればと考えて筆をとった次第です。
発病の兆候
「う〜ん、移植ねぇ・・・。しかし透析でも、10年位は生きられますよ」
主治医の、この言葉を聞いた時から、私たち家族の決意が固まりました。
何としてでも、母に腎移植を受けさせるのだと。
働き者の母は、結婚依頼20数年もの長い間、父の経営する会社を切り盛りしてきました。朝早くから外に出てしまう父に代わって、幼い兄と私を抱えながらも、銀行さんや得意先との交渉から帳簿付けまで、文字どおり父の右腕として働く母は、家族にとってはもちろん、会社の副社長としてもなくてはならない存在でした。
やがて兄が学校を終えて会社を手伝うようになってからは、父の事業も順調に拡大していきました。そして時を同じくして私も高校を卒業。子供の頃からの夢が叶って航空会社に就職が決まり、希望に胸膨らませて社会への第一歩を踏み出しましたが、ちょうどそのころ、母の身体に変化が起こり始めました。
(手足がむくみ、白目は血走ったように赤くなって、常に頭がズキズキと痛む)
最初は特に気にはしていなかったものの、一週間以上も続く症状に耐え切れずに病院へ行きましたところ、血圧が230を超えて既に眼底出血していて、その場で入院手続きがとられました。そのとき医師からは、『重症高血圧急性腎炎』であると告げられましたが、この時はまだ『人工透析』などと言う言葉も知りませんでしたし、まさかこれ以上状態が悪化するとは、夢にも思っていませんでした。
40日ほどの入院で、一旦は退院したものの、翌年昭和60年の暮れには『慢性腎炎』へと病名が変わっていきました。
厳しい食事制限を強いられ、入退院を繰り返していましたが、いつの間か母の腎機能は『人工透析』が必用なほどにまで悪化し、遂に血液透析が開始されたのです。
笑われそうな話ですが、母も私も、そして父までもが、
「多少は辛いだろうが、透析をしていれば数ヶ月で回復する」
と、当時簡単に考えていたものですから、
「一生涯逃れられない」
と同室の入院患者さんから知らされた時には、文字どおり目の前が真っ暗になったものです。
「助かる道は、ただ一つ。腎移植しかない」
今まで、自分の家族には全く無関係であった臓器移植という問題が、突然に現実のものとして目の前に現れ、冒頭の主治医との会話に発展していったのですが、主治医の口からは、「そんなにお望みなら、一応、死体腎移植を申し込んでおきますが・・・」といった、何とも頼りない返事しかもらうことができないばかりでなく、まだ50そこそこであった
母本人を目の前にして、「透析でも10年は生きられる」と言うではありませんか。逆に考えれば、《あと10年の命》 と宣告されたと同じことでした。
おまけに入院していると、おせっかいな患者さんがいるもので。
「腎バンクなんかに登録しても、移植できるチャンスは宝くじに当たるよりも難しい」
と知らされ、絶望感に追い撃ちをかけられたものですが、ある日、世間話の中で、年配の
看護婦さんの口から、「以前に何かで見たけど、お金さえ出せれば海外でやってくれるところがあるらしいわねぇ」
という話も出てきました。しかし突っ込んで聞いてみると、その看護婦さんにしても、うわさ話以上のことは何一つ知らず、成すすべがないままに母の入院生活は続きました。
思いあぐねた私が、いっそのこと私の片方の腎臓を提供しようとして、誰にも内緒のまま、当時の母の主治医に相談したことがありました。しかし主治医は、
「将来のある、まだ結婚前のお嬢さんからの提供は受けられない」
として、適合検査すら行なわれないままに、この相談は終わってしまいました。
後日、秘密のはずであったこの話が、なぜか父の耳に入るところとなってしまい、父から
こっぴどく叱られたことを、私は一生忘れることが出来ません。
とにかくこの頃は、色々なことがありました。主婦兼副社長を失った我が家は、女手を必用としており、私は当然の事として会社を辞めざるを得ず、慣れない未婚の主婦を演ずる事を余儀なくされたのも、ちょうどこの時期でした。