腎臓移植

フィリピン腎移植
8. 母を救った腎臓移植(MKさんの投稿体験手記)
  〜患者の家族の目から見た海外での腎移植〜

日本でダメなら海外で・・・移植コーディネーターとの出会い
あれは忘れもしない、昭和63年の6月のことでした。
何気なくつけていたNHKの朝のニュースが、
「民間の団体が海外で腎移植手術が出来るルートを作り、第一号患者の手術が昨日無事に終了した」
と報じたのです。

『目から鱗が落ちる』とは、正にこのことでした。詳しいことはまだ解らないものの、 真っ暗であった前途に、突然一筋の明るい光が注し込んできたように思えた私は、 食事の支度も忘れてテレビに釘付けとなり、(以前に年配の看護婦さんが言っていた のは、このことかも知れない)と、勝手に関連付けていました。

その晩から、NHKのスクープを追いかける形で、他の新聞やテレビでもこのことを取り 上げだしました。しかし報道の内容は、
「東京・新宿にある『海外腎移植事情研究協会』という団体が、フィリピンで行なわれ る腎移植手術にからみ、患者の弱みにつけ込んで暴利をむさぼっている」といった趣旨 のものばかりでした。
これらの続報に接するうちに、(救世主出現か)との私の期待感も、間もまく急速に しぼんでいくのが感じられる日々でした。が、しかし、思いもつかないきっかけから、事態が 急展開を見せることになりました。

「K子、本屋へ行って『文藝春秋』と『週刊新潮』を買って来てくれ」
暑かった夏も過ぎ、フィリピンでの腎臓移植のことなど、家族の誰もが忘れかかっていた 10月のある日、出張帰りの父が言いました。理由を尋ねると、札幌から帰京する飛行 機の機内で、隣の人が読んでいたのを盗み見たとのこと。
何がなんだかわからないままに買い求めてきた両誌には、数ヶ月前に話題となった大阪の 移植患者さんの体験手記が、合計10ページにもわたって掲載されているではありません か。そこには、透析患者としての移植への切実な願いとともに、どのような経緯や手続き を経て手術が実現したのか、また、長年の夢が叶って健康を取り戻した今の心境が切々 と述べられていました。
今まで新聞やテレビでは伝えられることのなかった事実が次々と読み取れ、驚きをもって 何度も何度も読み返した私たちです。

「これは、もしかしたら もしかするのではないかーー」
スキャンダラスな表現や記事で購買意欲を誘う三流誌ならばいざ知らず、月刊誌の老舗 とも言える文藝春秋や、堅い編集方針で知られる週刊新潮に掲載されたことも、私たち に安心感を与えてくれました。
その晩に開かれた家族会議では、《より詳しい情報を得るために、この大阪の患者さんに 会って直接話を聞く》 という結論に達して、文藝春秋社の編集部宛に問合せをしました ところ、数日後、次のような返事がハガキでもたらされたのです。


「前略
OT氏(体験記を書いた大阪の移植患者さん)宛のお手紙拝読しました。事情によりご本人には転送出来ませんので、遅くなりましたが編集部より回答致します。
『海外腎移植事情研究協会』の連絡先は、電話 03-3226-XXXX、所在地は東京都新宿区新宿 1-XX-XX です。
お手紙によりますと、週刊新潮の紹介記事のみで、文藝春秋はお読みになっていないようですが、海外での移植には様々な問題がございます。ぜひ本文をお読みになった上でご検討戴きますよう、お願い致します。
早々
文藝春秋 編集部」



当方からの問合せの表現が悪かったのか、「文藝春秋の記事も参考に」云々との回答 でしたが、言われるまでもなく既に何度も読み返していましたし、だからこそ同編集部へ 問合せをして、結果このお返事をいただいたのです。

「詐欺師と出るか、救世主と出るか解らないが、とりあえず話だけでも聞いて来い」
父の決断に時間はかかりませんでした。

翌週、私は母を伴って新宿にある協会の事務所へと向かいましたが、私の日記によれば、 時は昭和63年10月27日。この日から、私たちと協会の長いお付き合いが始まった訳で すが、同時にこのころから透析中の母の容態が更に悪化してまいりました。

透析開始後3時間程を経過すると、ほぼ毎回のように嘔吐して、全身が痙攣すると同時 に意識を失ってしまい、その時の最低血圧の値は測定不可能なほどに下がるまでになって いたのです。
「一般に透析患者は、透析療法導入後一年ほどでその辛さにある程度慣れるので 心配は要らない」
転院時に新たな透析専門医から言われたこの一般論ですが、母の場合にはそれが当て はまらず、月日の経過とともに逆に苦痛が増すばかりでした。

(明日一日を生き延びるために、今日、地獄の苦しみに耐えなければばらない)
将来のためにする、たった一日だけの我慢なら私にも出来るかも知れません。しかしその 苦しみは、移植という根本治療を受けない限りは、月・水・金と、一日おきに必ずやって来る のです。そしてその苦痛を甘受しながらも、母の全身状態は確実に悪化の道を辿り、本来の 寿命を完うすることなく、終焉に近い状態を迎えつつあるように感じられました。

盆も正月もなく透析病院に通い続けた結果が、回復の希望どころか、現状維持もままな らずに今日の母の姿となってしまったのです。
(何とか活路を見出して、一日でも早く移植手術を実現しなければ、10年どころか、いつ 命の火が消えてしまうかわからない・・・。)
状況は極めて切迫していました。
協会との面接の予約は、透析のない日を選んで取り付けました。平坦な道ならばまだしも、 階段の昇り降りが困難な母を連れてのことですから、新宿まではタクシーを飛ばしました。

小奇麗なビルの一室では、テレビや新聞で何度か見たことのある栗原理事長と T さんが 応対してくれて、私たちにとっては『対決』とも言えるこの日の面会が始まりました。
と言うのも、いくら雑誌に採り上げられたとしても、民間の団体であるこの協会のことを頭から 信用するわけにはいきません。不信感が皆無であるとは、とても言い切れない当時の状況 があったことは事実でした。

「こんな仕事、何度辞めようと思ったかわかりません」
初対面の挨拶が済むと、T さんが突然口を開きました。横に座る栗原理事長がびっくり した様子で、オイオイ とたしなめます。

「・・・ 文藝春秋をお読みになったんですよね。あの大阪の一号患者さんの移植手術に 関しては、事実を事実として客観的に報道してくれたのは、NHKテレビと文藝春秋に 週刊文春、それに朝日新聞だけでした。あとの社の報道は、ご存知と思いますが、それは それはひどいものでした。彼等に貼られてしまった『悪人』というレッテルは今もまだ生きてい て、古い友人からも白い目で見られるようになってしまいました。
真実を時間を掛けて説明すれば納得してくれるんですが、一時は本当に落ち込みました。 でもね、弱気になった時は、移植のお陰で別人のように生まれ変わった一号患者さんのこ とを思い出すんですよ。」

「我々を信頼して、今か今かとご自分の順番を待っておられる他の患者さんもいらっしゃい ますしね。弱音ばかりは言ってはあられませんわ」
と、栗原理事長。
「その大阪の患者さん、その後いかがですか?」
初めて母が口を開く。

「そりゃあもう、はつらつとしていらっしゃいますよ。ご本人は勿論ですが、一家の大黒柱が 死の縁から蘇ったご家族の喜びといったら、想像してみて下さい。
一号患者さんということで、我々も至らない点が沢山ありました。向こうへお連れしてから 手術の実施まで、予想外に長い期間お待たせしてしまったのですが、今では本当に感謝 していただいておりますよ。我々も勇気づけられます。しかしー 」

二人は、苦難の連続であったその時の状況を、微に入り細にわたって話して聞かせてくれ ました。その話は、作り話や虚勢では決して語ることの出来ない内容であり、母も私も、 その一語一句を聞き漏らすまいとして真剣に耳を傾け、時には質問も交えるうちに、いつの 間にか3時間もの時が過ぎ、私たちが準備してきた疑問点は次々にクリアされました。
結局この日の説明では、

*移植手術の前に、組織適合検査と呼ばれる事前検査を受けなければならない事。
*検査の結果、フィリピン人に合い易い組織型の場合は比較的短時間で移植手術が実現するが、逆に合わせることが難しい組織型の場合は、手術の実現が難しい事。
*手術後、予後管理を診てもらう国内の医療機関を予め決めておく必要がある事。
*倫理面での問題が生じないよう、常に冷静かつ理性的な行動が求められる事。
*フィリピンでは腎移植に対する医療レベルは高いものの、その他の社会資本や国民  生活は、我が国とは比べものにならない程の大きな開きがあり、現実を現実として謙虚  に受け入れなければ、移植の実現は難しいという事。

だいたい以上のようなことを説明してもらいましたが、一番印象に残っていることとして、 「当協会に申し込んだからといっても、それは一般の請負契約のように移植の実現が約束 されているものではない。それは『透析との決別』という共通の目的を有する運命共同体と してのスタートが切られたに過ぎず、信頼関係なくしては今後の展開はあり得ない。
また、移植手術のキーポイントとなる臓器は、世界中どこの国でも不足しており、本来は 国内で解決しなければならない問題を、外国の厚意によって救いの手を差し伸べられてい る現状を良く認識しないと、唯一残された道を患者自らが閉ざしてしまう事にもなりかねず、 その意味では、仮に何千万円という大金を積まれても、金の力にものを言わせようとする 患者や、後に問題を生じさせる恐れのある患者の世話は絶対に出来ない」

この基本姿勢を明確に示されるに至っては、数時間前まで抱いていた、この協会に対する 不信感は急速に薄れていきました。たった一つの懸念を除いては・・・。

この日、私たちの質問は多岐にわたりましたが、中でも最も知りたかったポイントは、現地 フィリピンの医療レベルでした。いま考えると大変に失礼な疑問ではありましたが、藁にもすが りたいという気持ちの反面で、先進国でも難しいとされる臓器移植を、あんな国で受けて 大丈夫だろうかとの心配は残りました。
栗原理事長と T さんの説明だけでは、この懸念を払拭出来ません。この目で直接現地を 見ない限り、お二人の言葉をそのまま受け入れることは、どうしても出来ませんでした。
しかし母は、とりあえず組織適合検査だけでも受けたいとして、協会に申し込みを済ませ、 同時に、移植手術をどうするかという最終的な問題は、検査が終了した段階で意思表示 する事として、協会側とも合意に達したのです。

その後結局母は、協会のお世話で無事に腎移植手術を受けたわけですが、この日、 昭和63年10月27日に申し込みを済ませたものの、実際の手術にこぎつけたのは、翌年 平成元年の8月でした。
この間、本当に色々なことがありました。
香港やアラブ諸国、さらにはオーストラリアなど、決して医療レベルが低いとは思えない国々 から、大勢の患者が腎移植を求めてフィリピンにやって来る理由は、私たち母娘が身を持っ て体験したことですから、あとで詳しく説明したいと思います。

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