腎臓移植

フィリピン腎移植
8. 母を救った腎臓移植(MKさんの投稿体験手記)
  〜患者の家族の目から見た海外での腎移植〜

夢を実現させたもの 手術を前にして考えること
ここに至るまでの経緯を振り返ると、感無量です。
思い返せば、『人工透析』という言葉をはじめて聞いたのは、3年と数ヶ月前のことで した。

「透析で、いつかは治る」
と考えていた頃を、僅か3年前と言ったらよいか、3年も昔と言ったらよいか、この期間に 色々なことがあり過ぎたために、何とも言えません。
誰も助けてはくれず、自助努力で見つけ出した移植コーディネーターを頼り、見知らぬ 国へ救いを求めての、正に命懸けの冒険でもありましたが、その努力が、いま実を結ぼ うとしています。

この間の時間は、私たち家族に大きな変化と忍耐を強いてきました。
母は、入退院を繰り返し、何度も死にかけて、その度に地獄を覗いて来ました。
父にしてみると妻を失ったも同然で、言葉にこそ出しませんが、ずいぶんと寂しい思いを したことでしょう。
それに加えて父は、幾つかの重大な決断と判断を迫られ、時には文章に表現できない ような、大喧嘩と言っても良いほどの交渉を余儀なくされ、その全てに結果を出してきま した。

私はといえば、職場に未練を残しながらも退職を経験し、同時に未婚の主婦業をも 演じることとなりました。そして理解ある夫にも巡り合い、結婚。しかし、これまでの生活 は、子供を作ることが許されない不自然なものでありました。

夫も今日まで、私たちを側面からよく支えてくれました。もしも現在の夫が、理解の無い 人間であったならば、私はこれほど実家の役には立てず、移植の実現より前に、我が家 は崩壊していたかも知れません。

兄嫁も兄も、それぞれの立場で出来る限りの理解と協力を示してくれたことは、言うまで もないことです。
いま、この長くもあり、また短くもあった苦難の時に終止符が打たれようとしているのです。
透析患者にとって、終止符を意味するものは、たった二つしかありません。
移植か、さもなくば、"死" です。

「来月の中旬頃に移植手術が実現しそうだ」
この知らせに接した時の喜びを、私たちは生涯忘れることが出来ないでしょう。
その晩は、兄一家も含め、久し振りに家族全員が食卓を囲みました。
家では滅多にお酒に口をつけない父も、今夜ばかりは顔を赤くしています。
透析に入ってからというもの、常につきまとうだるさのため、それまでの快活な性格が打っ て変わって、喜怒哀楽を忘れたが如く、表情を外に出すことがめっきり少なくなっていた母 も、今夜だけは別人のように饒舌です。
今までは自分の事ゆえ、決して自らは積極的言動を取らず、私たち家族の負担になる ことをどれほど恐れ、遠慮して事態の推移を見ていたのかが、今夜の母のはしゃぎぶりを 見てあらためて感じられ、熱いものが込み上げて来たのは私だけではなかったと思います。

「お義母さんの病気が治ったら、皆でゴルフをやりましょうよ」
本気とも冗談ともつかない夫の軽口に、
「よし、オレが教えてやる。家族全員でゴルフができるなんて夢のようだな。手術が終わっ たら、まずは練習場通いだ。オレ様が直々にコーチしてやるからな」
「オヤジじゃダメだよ。オヤジはゴルフじゃなくて、夜フだから」
お酒がまわった兄が茶化すと、
「ちょっとちょっと、私にゴルフなんか出来るわけがないじゃないのよ。お母さんはそんなこと よりも、手術が終わって先生の許可が出たら、あのジョッキに入ったキリキリに冷えた氷水を 『もう飲めない』って言うほど飲んでみたいわあ」

この、ささやか、かつ、切実な希望を述べていた母をして、翌年には家族全員でのラウンド がコースで実現するとは、いったい誰が本気で考えていたことでしょう。

平成元年7月末、母と私、それに協会の T さんを乗せたジャンボ機は、美しい夕焼けに 染まる西の空に向かって、再び力強くその機体を舞い上がらせたのです。

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